「神様、どこにいるのですか?」沈黙の夜に描くイエス・キリストの背中と、15歳の若きカトリック信徒が遺した愛の絆

「神様、どこにいるのですか?」沈黙の夜に描くイエス・キリストの背中と、15歳の若きカトリック信徒が遺した愛の絆 · Avonetics
第一子を出産してからの1年間、ある母親は毎日聖書を開き、祈りを捧げ続けています。ここ数ヶ月はあらゆるキリスト教の書籍を読み、賛美歌を聴き、神に忠実な生活を送ろうと全力を尽くしてきました。しかし、彼女の心は深い不満と焦燥感に包まれています。「神の存在を肌で感じさせてほしい」と涙ながらに乞うているにもかかわらず、返ってくるのは静寂だけだからです。 一方で、もう一人の信徒は、動画制作のために不器用ながらもイエスの絵を描き、その拙い作品を恐る恐る公開しました。「まだ練習中で、うまく描けません」と語るその絵には、しかし、主を求める純粋な魂が表現されていました。これら二つの姿は、私たち現代人が抱える共通の問いを浮き彫りにします。神は本当に私たちのそばにおられるのか、そしてなぜ、最も必要なときに沈黙されるのか。 ある人は「もっと熱心に祈り、隠れた罪を悔い改めれば、いつか神の臨在を感じられるはずだ」と主張します。感情的な「実感」や霊的な高まりこそが、神とのつながりの証明であると信じるからです。しかし別の人は、「信仰とは感情の波に左右されるものではない。神の沈黙は、私たちが自己の満足のためではなく、ただ神を愛することを学ぶための試練なのだ」と反論します。 この葛藤に対する美しい答えが、カトリックのミサの朗読の中に示されています。マタイによる福音書で、イエスは「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」と約束されました。神の存在は、個人の閉ざされた心の中だけでなく、他者との関わり、つまり「つながり」の中にこそ現れるというのです。 この真理をその短い生涯で体現したのが、15歳で天に召されたカトリックの若者、Benjamin Voです。彼は自ら進んで貯金箱を差し出し、困っている叔父を助けようとしました。誰に言われるでもなく、家族を一つの体として愛していたからです。彼が遺した家族との温かな思い出や、飛行機への純粋な愛は、今も彼を愛する人々の心の中で神の愛のシンボルとして輝き続けています。 神の存在を感じられないと嘆くとき、私たちは自分一人の殻に閉じこもりがちです。しかし、誰かを愛し、祈りを合わせるとき、私たちはすでに神の現臨の中に生きています。 この切実な信仰の問いと、Benjaminが私たちに教えてくれる天国への希望について、番組のホストたちがさらに深く、温かな対話を繰り広げます。詳細はポッドキャスト「Benjaminを偲んで」でぜひお聴きください。